2008年7月24日木曜日

天保無縁塚延命地蔵追善

 今から約175年ほど前、江戸時代後期の天保年間、東北地方は長雨や低温などの異常気象に見舞われて凶作が続いたそうです。真夏の7月に霜が降り、盆の13日に綿入れを着て震えながら墓参りをしたほどで秋田藩でも収穫が皆無に近いところがあったそうです。

 「沢内年代記」に「山に子を捨て、川に打ち込み、我身ばかり他領に逃れる者限りなし。泣き悲しむ声、山野にかまびすし。その死骸累々と道のちまたに満つはびこり、昔、治承・養和の飢饉、源平両家の合戦、元弘・建武の軍に死する人合わせて見るとても、これに増されり。恐しかりし事共なり」とあるように、その惨状は目を覆うばかりだそうです。このため、西和賀地方の領民多数が「秋田に行けば米がある」という噂をたよりに峠を越え、流浪したそうです。

 結局、秋田でも食糧にありつけず、次々に餓死して行ったそうです。田畑を捨て、家族散り散りになって逃れ、力尽きて生き倒れた南部流民の塚が、平鹿地方だけでも六ヶ所以上あるといわれています。
 
 薄井村(現雄物川町薄井)周辺だけでも百十三体もの流民の死骸があり、これをみかねた薄井村の人々が丁重に埋葬し、これを「天保無縁塚」と名付け毎年、7月24日に供養が行われているそうです。

 このような飢饉に峠を越え秋田に食糧を求め餓死した人たちを供養してくれている薄井地区の皆様に感謝すると共に御霊を供養する大切な一日です。

                       天保無縁塚延命地蔵尊170回忌資料から